戦後の日本は何故1ドル360円だったのか、そして「プラザ合意」?とは何か

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戦後、1ドル360円からスタートした日本、しかし「プラザ合意」によって一気に円高が進むことになるのです。
今回は、「1ドル360円」と「プラザ合意」、この2つに焦点をあて簡単、判りやすく当時の状況から解説します。


1ドル360円によって日本は自立できた
1ドル360円時代は、国民が海外旅行に行くなど夢のような時代であった。

しかし、実は、この360円こそが、戦後の日本を経済大国に押し上げた源なのです。

この360円は、誰が決めたのか、それは勿論、日本を統治したマッカーサー率いるGHQです。
厳密にいうと、ドッジ・ラインというGHQの経済安定政策です。GHQの経済顧問であったジョゼフ・ドッチによって360円が定着したといってもいいのです。
GHQの思惑は、日本の復興ではなく弱体化なので、お前らの国なんてどうせ当分の間は立ち直れもしないし、こんなもんだろう、ということで半分馬鹿にして作り上げたレートが360円なわけです。

ところがどっこい、日本は朝鮮戦争の中継基地となって、その特需で驚異的な復興を遂げることとなり、その後も力をつけた日本産業はアメリカ貿易での大成功を収めるのです。

日本が360円の時代なんてあったのですね、これで救われたということは、これって、マッカーサーさんが気を利かせてくれたわけですよね。

それはない!マッカーサーは、日本人を12歳の子供レベルと小馬鹿にしていたので、この程度でよしと、深く考えなかったのでしょう。その後のマッカーサーは、隣の朝鮮半島が米ソ冷戦の大舞台となることで日本人なんて構っていられないという状態になっていったわけです。
GHQの連中も途中で、あっ失敗したと思ったことでしょう、主権国家となった日本には何も言えなくなってしまったというわけです。
最初は、日本をケチョケチョに弱体化、途中から赤化しちゃ困るので復興を少し応援、ところが朝鮮特需で予想以上に力をつけてしまい、アメリカ経済に影響を及ぼすまでになっちゃったと言うわけです。

「スミソニアン協定」も知っておく
360円はその後、1971年まで続き、日本の輸出企業は軒並みぼろ儲けとなるのです。

プラザ合意を知るうえで、その流れとして、これも知っておく必要があります。これとは「スミソニアン協定」のことです。
1971年にスミソニアン博物館で行われた、この会議によって、長らく続いた1ドル360円は、固定相場から変動相場に移行され、ようやく見直されることとなったのです。
これによって、為替レートは1ドル360円から308円に切り上げられ、その後も、円の通貨価値は伸び続けたのです。

貿易的には損な話ですが、今迄が異常すぎる円安であったので、多少、当たり前の水準になったのです。日本に取ってなにより大きいのは、円が国際通貨として少しは認められることです。
また、これがきっかけで日本人の海外旅行ブームに火が付いたのです。

「プラザ合意」とは
プラザ合意の名前の由来は、1985年9月22日に、この中央銀行総裁会議がニューヨークのプラザホテルで開かれたことにちなんで付けられた名称です。

プラザ合意とは、当時アメリカが悲鳴を上げたドル高を先進5か国で何とか是正してあげようと取り組んだ金融政策の合意です。
当時のアメリカは「双子の赤字」と呼ばれる財政赤字と貿易赤字が増え続けるばかりだったのです。

この事態に先進各国は、これ以上国際収支の不均衡が拡大していけば、ドルショックに陥りかねないと危惧し、アメリカを中心にイギリス、西ドイツ、フランス、そして日本の5カ国が結束して、自由貿易を守るためにドル安路線に容認することを合意したのです。

実は、このアメリカの貿易赤字の大半を占めていたのは日本なのです。
それを聞くと、現在進行中の米中貿易戦争が脳裏に浮かんできます。そう、この当時の貿易戦争の相手は日本だった。

日本企業に対してのアメリカ労働者の反発は激しく、あちこちで労働者の集会が行われ、トヨタなどの日本車が破壊されるパフォーマンスが繰り広げられたのです。
そして、日米摩擦をテーマにした日本人経営者とアメリカ人労働者の葛藤を面白おかしく取り上げた「ガンホー」という喜劇映画がヒットしたくらいなのです。

映画にもなったのですか、そんなに揉めてたんだ。

この映画、私も昔、ビデオ屋で借りて見てみたが、結構笑える映画で面白かった。日本人の描き方が江戸時代の侍みたいで変な感じだったけどね、アメリカ人から見たら田舎っぺの侍野郎が押し寄せてきて掻き回しやがったという感じかな。

「ロン・ヤス」関係で決着
そんな中で、プラザ合意がある程度スムーズに運んだのは、当時のレーガン大統領と中曽根首相との「ロン・ヤス」と呼びあう蜜月な関係が見逃せない。
中曽根首相は、レーガン大統領の、「強いアメリカ」の政策を支持しており、貿易摩擦を解消して、アメリカとの良好な関係を優先させたいと願っていたのです。

これによって、1ドル240円台だったドルレートは一気に1ドル200円台へ。そして1987年には1ドル120円台となり、輸出産業は一時的に大打撃を受けることになったのです。

ここから政府は、日銀に長期的な金融緩和を実施させ、公共事業を中心に内需拡大にシフトすることで景気を復活させようと試みたのです。
そして、円高の利点を活用して、輸入産業の拡大や旅行ブームの活性化を図ったわけです。
結局、見事にこの策が当たり、空前の不動産、株式などの財テクブームとなり、その後、日本に未曽有のバブルが訪れる結果を持たらせたのです。

「プラザ合意」ってそういうことだったのですか、いろいろと大変なことがあったのですね、とにかく、それをしのいできたことは凄い。けど、バブル崩壊後は、何をしてもダメでしたね。

このころまでは日本は強かったということです。円高の利点を生かして、東南アジアに工場を移転させたりしたのもこの時期です。
しかし、バブルで浮かれ過ぎとなった日本人は、さすがにバブル崩壊後には立ち上がることもできないで、とうとう中国に追い抜かれるという結果になったというわけだ。

まとめ
日本は360円でかなりの得をしたということです。
戦後の日本はかなりのツキにも恵まれたことは確かですが、しかしながら、すべてが破壊された中で、これを見事に開花させた知恵と技術は日本人ならではのものであると感心するのです。

最後まで読んで頂き有難うございます。
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